2009年05月09日
真言密教の確立
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、
嵯峨天皇が即位しました。
空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、
7月の太政官符を待って入京、
和気氏の私寺であった高雄山寺
(後の神護寺)に入りました。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、
といわれています。
最澄は『請来目録』を見て空海が持ち帰った
密教の重要さを評価したためといわれています。
その後、二人は10年程交流関係を持ちました。
密教の分野に限っては、最澄が空海に対して
弟子としての礼を取っていました。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する
空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には
訣別するに至ります。
なお二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経
(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、
最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられます。
だが、近年その通説には疑義が提出されています。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
嵯峨天皇が即位しました。
空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、
7月の太政官符を待って入京、
和気氏の私寺であった高雄山寺
(後の神護寺)に入りました。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、
といわれています。
最澄は『請来目録』を見て空海が持ち帰った
密教の重要さを評価したためといわれています。
その後、二人は10年程交流関係を持ちました。
密教の分野に限っては、最澄が空海に対して
弟子としての礼を取っていました。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する
空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には
訣別するに至ります。
なお二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経
(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、
最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられます。
だが、近年その通説には疑義が提出されています。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
Posted by とぽろす at
09:38
2009年05月09日
仏道修行
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、
19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。
御蔵洞(高知県室戸市)で修行をしている時、
口に明星が飛び込んできて悟りを開いたと
いわれています。
その間、空海が目にしていたのは空と海だけで
あったため、空海と名乗ったと伝わっています。
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある
『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが
真実でないことを示しました。
(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、
『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されています)。
この時期より入唐までの空海の足取りは
資料が少なく断片的で不明な点が多いです。
しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで
山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を
学んだことは想像に難くありません。
『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのも
この頃と考えられています。
さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした
形跡もあります。
19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。
御蔵洞(高知県室戸市)で修行をしている時、
口に明星が飛び込んできて悟りを開いたと
いわれています。
その間、空海が目にしていたのは空と海だけで
あったため、空海と名乗ったと伝わっています。
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある
『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが
真実でないことを示しました。
(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、
『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されています)。
この時期より入唐までの空海の足取りは
資料が少なく断片的で不明な点が多いです。
しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで
山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を
学んだことは想像に難くありません。
『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのも
この頃と考えられています。
さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした
形跡もあります。
Posted by とぽろす at
09:36



